自己犠牲なんてクソなのか

一般

DNA(本能)

自己犠牲というのは人に限らずいろいろな動物に見られる行動で、もちろんそれは宗教や教育、訓練によるものではなく、きっとDNAに記憶された本能だろう、中でも子孫のための自己犠牲は「種の保存」という説明もしやすいからだろうよく知られている、はず

多様性

一つ個体だけが生存するための本能に自己犠牲など矛盾はするけれど、今ある多様性が進化によるのものだとすれば、同じDNAを増殖させても進化する可能性は低く、多様なオスとメスでの混ぜ合わせ、そして余程多様な混ぜ合わせがなければ、こんな複雑である意味奇妙な人類などへの進化は出来なかっただろう

多様性とその共存がより多様な進化に必要だったから、他をいたわり保護する愛や優しさそして自己犠牲は宗教などの教えによるものではなく、また種の保存だけではなくより多様に進化するための記憶で本能、そして他を圧倒する特異な進化を遂げた人類のDNAの記憶にはより強く残っている、なんてことはきっとあるだろうと思う、しかし、一番最初のオスとメス、一番最初の多様性がどうやって発生したのかは全くわからない、やっぱり神様が創造したらしい

もっと科学的に生物学の話を借りれば

K. Watanabe's page - 質問4「遺伝的多様性はなぜ重要なのですか?」
(答)一言で言えば,遺伝的多様性が生物を生物たらしめている特性だからです. 地球上には,知られているだけでも150万種,おそらくはその10~100倍の種が存在しています.魚類だけでも2万種以上が知られています.このような種多様性は,とりもな...

ふつう,集団内には多数の遺伝的変異が蓄積されていますが,環境の悪化や乱獲などによって個体数が激減すると,近親交配の影響によって遺伝的多様性も低下します.その結果,病気や環境変化への耐性が低下したり,近交弱勢が起こったりすることが知られています.その直接的な悪影響の程度は,その集団が経てきた歴史によって,さまざまだと考えられます.しかし,集団内の遺伝的多様性の減少が,適応進化の原動力を失うことを意味することには変わりありません.

ここでは「遺伝的多様性」のことだけれど「種の多様性」も同様に、多様性を進化の到達点としてだけ知ろうとすることは、「奇跡の産物」というある種傲慢な妄想で「進化論」を理解したことにはならない、「進化の過程にいる」という認識がなければ科学にもならないだろう

また、「天地創造」と「進化論」は対峙するもののように言われることが多いけれど、今ある多様性を「奇跡の産物」としてだけ知るのなら大差はないと思う

天地創造 vs 進化論

「宗教は信じるもの、科学は理解するもの」なんていうことで納得していたけれど、よく考えれば宗教にも理解は必要だろうし、また、多くの人は「科学の進化が全てを可能にする」なんてことを信じているとも言える

教科書をバイブルのように扱い、進化論を当たり前のことのように教え込まれたから信じ込まされていたけれど、「次なる進化も人類から派生するとは限らず、もしかしたら人類が豊富な食料なんてことになるのかもしれない」、そんな想像は出来ても進化論を理解するのは相当難しい

「小進化と大進化」なんて少しは理解しやすいと思うのだけれど、そもそもそんな言葉も使わないらしく、「大進化」と呼ばれる生殖隔離(交配出来ない、または交配しないことらしい)、要するに別種への変化は「小進化」程度の突然変異でも起こる、と言うようなことらしいけれど、隔離された環境も必要なはずで、地球という限られた空間にこれだけ多種多様な存在があること、奇跡とも呼べるような自然のシステムや動物たちの行動への「完全な説明」にはならないだろう、そしてこれから起こることに関しては想定(もちろん科学的で正確な)すら出来ない

進化論は「生物は不変ではなく、進化の過程である」ということだけで十分、そのプロセスが天地創造でも問題ないと思うのだけれど、ダメなのかな

天地創造はキリスト教では旧約聖書の初めに書かれていて、そのまま理解することは難しいけれど、そもそも神の時間と人の時間は違う、神は時間に縛られることもないのだから、「天地創造は完了していない」という解釈でも良いと思う、やっぱりダメかな

ちゃんと真面目な信仰を持つ人たちにも「預言は成就した」というだけではなく、「予言の成就は未来にある」という解釈もあり、「再臨」そして「最後の審判」などもその解釈は様々、少なくとも信仰がある以上「神の仕事は完了していて、後のことは人類に託された」なんてことは多分ないだろうから、「神の計画は進行中」ということで良いのだろう

聖書は人が理解しやすいように書かれた教科書でもあるのだから、子供用教材にあるように幼稚に思えるところがあっても書かれていることだけが全てではない、学校などで使われる科学の教科書は、それを信じずに沿わない回答をすると落伍者という異教徒扱いを受ける「科学教の聖典」ということも言える

「科学教の聖典」は他の宗教のものと違いそれが唯一ということがなく、脆弱なところは修正されたり補完出来たりすることが最大の強みだろうけれど、そこに「生きるための規範」がないことは最大の弱みで(「道徳の教科書」などが規範にはならないだろう)、科学だけを盲信して他の信仰を棄てることは規範を棄てることにもなる(これは断言したい)

決して宗教と科学は対峙するものではなくそれぞれ補完し合うべきもので、まず「人知を越えた何か」の存在を素直に認めることが大切だろう、「神のみぞ知る」そして「神様が決めること」なんていう判断が最も適切なことは結構多いだろう

「科学の進化が全てを可能にする」なんて盲信する「科学教原理主義者」達は、規範を放棄している可能性が高く非常に危険かもしれない、なんて思う(実は確信している)

宗教は「全ての規範」として信仰することだから、「信じれば救われる」などと言っても「大もうけ出来る」やら「病気が治る」やら「無茶してもケガしない」なんてことではない

特にキリスト教の場合、キリストの「自己犠牲の精神」を規範としてキリストの言葉を守ることがその信仰なのだとしたら、復讐はもちろん正当防衛でも攻撃は許されないはずで、「家族を守るため」や「国を守るため」でも攻撃はもちろん、相手の利益を損なうことへの大義は認められない、もっと言えば「他を救うための行いをためらう」ことさえ許されない相当厳しい規範なのだから、その信者が相当数いれば戦争など起こるはずはない、まあ、アメリカはユダヤ教の国だからってことらしいけれど、最近危険視されてるイスラム教はかなり断片的にしか知らないけれど、人を傷つけることなど決して許されていない平和宗教だと聞いている

みんなそろってどれだけ都合の良い解釈をしてるのだろう、それとも規範を放棄した「科学教信者」がその大半なのだろうか

だからもっと謙虚に規範を守り、他を慈しみいたわり、時に自己犠牲もいとわぬ献身的な精神を持つことはとても大切だと、「全ての悪さは許してもらって恵だけいただこう」なんて、お願いして歌った程度じゃ無理だと思うぜ

また、出来るだけ科学的に言えば、自己犠牲の精神は芽生えるものではなくDNAの記憶、それはもう必要ない過去の遺物なんかではなく、進化に必要な多様性を保持するための本能なのかもしれないのだから、優しさなどの感情も、それが「生殖のための下心」と言うことが科学的に証明されるまでは大切にしよう、ま、「生殖」というご褒美もあることだし

そして、間違えなさそうなことは「テラフォーミングなんてことが現実味を帯びてきた」なんてのがきっと錯覚なことと、重大で深刻な環境変化は思うよりずっと早く起こるだろうってこと

roadmap2011

ちょっと壮大すぎで冗長にもなり過ぎたけれど、こんな話「勢いでついでにおまけ」のようにでなければ書けない、なんてこともある

男と女

自己犠牲がDNAの記憶なら、まるで別な種とも思えるくらい違う男と女でその特性が違うのも当然だろうし、もしかしたら進化の過程で男女別な特性を持つことが有利、または必要だったのかも

女にとっての自己犠牲は子供を守るなど愛や優しさなら、それは変わらずあり続けるだろう

男にとっての自己犠牲は群れを守るなど「ノブレス・オブリージュと言われるような精神の問題」なら、それはすでにほとんど絶滅している

最近、政治家や経営者は女の方が良さそうだなんて思うことが多いのはそんなことが原因なのかもしれないけれど、愛や優しさが天下の大事に発動されることはないだろうから、その期待は裏切られることにもなる、残念

自殺

もう10年以上前になるけれど、金もない、仕事も失いそう、あるのは借金だけで、それらを解決する気力も失せて自殺を一つの選択肢として考えたことはある

そして自殺の方法を考えながら眠りについたら、しょうもない夢を見た

「なぜか宇宙人の侵略が始まり今いる場所が壊滅的になることを知っている俺、とにかく宇宙人の侵略で壊滅することが確実だから必死に逃げる俺、その場所には普通に生活してる人たちがいるのに、そこが壊滅することがわかっているのに一人で逃げる俺、時には雑踏の中人をかき分けながら逃げる俺、宇宙船が近づいていることが見えていても誰一人助ける気など全くなく必死に逃げ続ける俺、そう死にたくないっていう一心で」

宇宙人の攻撃が始まる前に目が覚めた、友人なんかが登場して見捨てたりしてはなかったはずなのが唯一の救いな、どうしようもない夢だ

「結局死にたくないし、かなり普通に最低なやつだ」と自覚した、そこで特に建設的な考えが芽生えたりしたわけではなく、単純に自殺など考えることがバカバカしくなった、そして今のところ自殺なんかを考えたのはこの時が最初で最後

ま、一応自殺は考えたことがあるよ、と言うだけの話

群れで行動する動物の中には「老いてその群れの足手まといになると自ら群れを離れ死ぬことを選ぶ」なんてことや、「群れが襲われた時に単独で別行動をとり襲われ役になる」なんてこともあるらしい、どの程度の自覚があるかはわからないだろうし、そう見えているだけなのかもしれないけれど、命をささげる自己犠牲は自殺行為でもある

自殺が野生動物にも見られるDNAに記憶された本能なら、若いやつらの自殺は本能の誤動作とも思える、そしてそれは協調性などの教育で無理に本能を目覚めさせてることが原因だろうなんて、「協調性に乏しい」ゆえのひねくれた考えかもしれないけれど、必ずしも間違えだとも言えないだろう

また、本来必要ない時期での早すぎる目覚めが、本来必要な自己犠牲の精神を、わがままで幼稚な判断で不要なものとしている可能性もある、なんて思いつきだけれど結構当たりかもよ

筆者の場合思いとどまったけれど、自殺が「行き詰まって楽な方の選択で、それが十分に成人の場合」、それは恐らく本能ではなく人類特有のものかもしれない

そして人類が自滅という総自殺に向かってるのは地球に対する自己犠牲なのかな、だったら間違えてはいないだろうから問題ないだろう、たぶん

何でこんな記事書き始めたんだっけか

「文才がないのだから丁寧に」という心がけが裏目に出て、まさに支離滅裂

なぜだか忘れたけれど「自己犠牲」なんてキーワードで検索をしたけれど、その結果にイマイチ納得がいかず追求を始めたら無理がたたって収拾がつかなくなった、「ノブレス・オブリージュ」なんてのは前から気になっていて、いつか記事にしたいとは思っていたけれど、またそれが災いしたらしい

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より恵まれた人、より歳を重ねた人がそれに比例して自己犠牲の精神を持つことが必要で、自己犠牲はより若く弱い立場に強要するものであってはいけない

自己犠牲の精神は、それが必要な立場にいることや宗教などより良い規範を守ろうとすることで自然に芽生え、それが大切なものであることも自覚出来る、と信じたい

筆者が経済的ノブレスになることや絶大な影響力を持つことはないだろう(ま、絶対ない)けれど、これだけ長々と偉そうに書いたことは忘れないよう心掛ける努力はすると思う

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