自己犠牲なんてクソなのか

一般

ノブレス・オブリージュ

元はフランス語で、ノブレスは高貴・貴族階級のことで社会的地位や財産、権力に恵まれた人のこと、オブリージュは強制される義務とかそんな意味らしい、ここでは「恵まれたものはそれ相応の自己犠牲が求められる」とでも解しておこう

古くからある格言とかではなく200年程度前に使われたのが最初らしく、日本では「東のエデン」とか言うアニメで使われてからその意味が「東のエデン」では別物なことを含めてよく知られるようになったようだ

貴族階級の言い分けだったりと良い意味だけではないらしいけれど、全て平等に分配するなど不可能なことだから、恵まれてることを「なにがしかの結果としての権利」と簡単に認めてしまうよりは、少なくとも「それ相応の義務がある」という社会的圧力はあった方が健全で、またその質は自発的なものではなく社会的圧力の質に比例すると思う

社会的圧力

自己犠牲やノブレス・オブリージュと関連づけると相当ややこしい話になりそうだけれど

NHKに屈するのも当然? 爆笑問題・太田光が右翼団体の抗議で「転向」していた!? - 本と雑誌のニュースサイト/リテラ
爆笑問題が「NHKで政治ネタをボツにされた」と告発した問題は、結局、太田光が「政治ネタをやらないというのは、打ち合わせの段階で僕らは了承している」「言論統…

この手の話は表に出にくいだけでいくらでもあると思う、自殺や事故死とされてることも警察捜査の甘さを思えばどこかの映画やドラマ並みに怖い話だってきっとあるだろうから、「ネタとして面白いし受けるから」という程度のことだったなら当然の判断をしたたげで、まあ問題ない

ただ、彼の発言に期待していた時期があったのも確かだから、やはり残念で「そんなに簡単にへたれるなよ」程度のことは言いたい

問題は簡単にへたれたわけではなさそうなことで、命がけの自己犠牲を強いるような話になっている、しかも家族の安全まで脅かされてるなんて尋常じゃない

太田の事務所に、長崎市長銃撃事件(1990年)を起こした右翼団体の幹部が抗議に訪れたのだ。太田がTBSラジオで「アジアへの謝罪のため靖国神社は破壊すべき」という発言をしていたとし、「真摯なる回答を求める」という抗議文を手渡したという。事務所は警察にも相談。警視庁が事務所に警備員を常駐させるように要請し、太田にも護衛をつける事態となった。

いくら銃撃事件を起こした右翼団体だからって警察はわざと過剰反応したんじゃないのかな、「危険だから言うこと聞いておとなしくさせた方がいい」なんてささやいたのは警察じゃないかと

そもそも右翼団体と暴力団は別物なはずで、本気になればその本人に対して銃撃事件を起こす程度には危険(十分危険?)かもしれないけれど、その家族、特に女子供まで巻き込むほどとは思えないし、本当にそんなに危険な組織ならそれこそ大きな社会問題だろう、暴対法なんて憲法を無視したような法律を容認してるのは何のためなの、やっぱりそんなダブルスタンダードは当たり前なのかな、もっと大きく扱うべきだろうに暴力が怖くて出来ないのかな

元々「家族の危険」なんて、ないんじゃね、警察がそう思わせただけだから、「家族を守る」なんて大義はないのかもってことだ

それに「真摯なる回答を求める」というのは「気概を見せろ」ということなら真っ当だ、本人にその程度の覚悟は必要だろう、そして「そんな覚悟あるわけねえだろ」って言うならわかりやすい

彼の政治的発言は飯の種だったりもしているのだから、なんだかノブレス・オブリージュや自己犠牲とは無関係な気もしてきたし、彼らのような「売れてる芸能人」が恵まれた人に属するのかというのも微妙だけれど、売れっ子たちがその影響力にどれだけ自覚があるのかは疑問で、その影響力を活用するのが「ネットで荒稼ぎ」なんてちょっといただけない

アメリカのように売れっ子が政治的発言をすることなんて当たり前なら、相当過激な発言でも自己犠牲とは無縁だろうけれど、今の日本では政府や大企業の意にそぐわない発言をすることは、仕事を干されたり時に太田光のようなこともある「余計な発言」ということになる、そんな発言を続けるには自己犠牲の精神も必要だろう

そして、発言程度に伴う自己犠牲は最小限でその効果が最大限に生かされるような社会的圧力は必要、売れっ子で恵まれているとは言ってもノブレスの頂点にいるわけではなく、「ノブレスの最下層」もしくは「反ノブレスの最前線」といったところなのだから、社会的圧力というバックアップがなければその影響力とともに討ち死に必至ってことになる

やっぱり無難にやめとくか

一万時間の法則

一流になるためには「一万時間の練習」が必要とかいうやつで、原文は知らないけれど「練習」などと言ってるところがかなり怪しい

一万時間というのは「1日5時間、年に100日程度は休むとして1年250日とするなら8年」、ある分野で一流と言われる人がその程度の経験をしていることは普通だろう、特別なことではない

例えばスポーツの場合は実戦時間が短く練習時間とは区別しやすく思えるけれど、練習試合とかはどうなるの、筋力トレーニングやランニングなど特定のスポーツに対するものではないことはどう判断したのだろうか、音楽などアーチストの場合はさらに意味不明になる

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丁稚奉公なんてのは才能とは関係なく受け入れられ、その厳しい修行に耐えていれば皆一人前に育てていたけれど、そこに脱落・淘汰はあっただろうし、一人前に飯が食えるようになることは、一流になることや成功することとは違う

一万時間の法則は決して嘘ではないだろう、というより当たり前の話、その当たり前の話を練習なんて言葉を使うことで「一流というのは皆、一万時間の地道な努力の成果」なんていうイメージにして、さらにそれを「新たな発見」にしているところなどほとんど詐欺の手法

それとも淘汰され脱落して一万時間を達成出来なかったのは皆根性無しなのかな

1万時間練習せずとも遺伝子が優れていれば一流になれるのか?
何かしらの分野で「一流」であるとか「天才」と呼ばれるような人達はセンスや才能に関係なく凡人をはるかにしのぐ練習量をこなしているという事実を基に、1万時間の真摯な練習によって誰でも一流のスキルを身につけられるという考えが「1万時間の法則」です...

数値の信憑性はともかく納得しやすい話だと思う

何であれ才能があれば練習や勉強が身につきやすく成果も実感しやすいから、自然と経験時間は人より多くなりその差は増大する、良い評価をされることが「成果」な時期もあるだろうから正しく評価される環境や、より良いアドバイスを受けられる環境、良いライバルの存在などより高い目標が設定しやすい環境なども必要

良い環境を探す努力は出来ても、そんな環境は努力だけで得られるものではなく運があるだろう、一流と呼ばれ成功するために必要なことは「才能と運」だってこと

もちろんその成功を維持させるためには努力が必要だろう、また、「才能と運」に恵まれなくても努力が必要な時だってある、特に良い評価に恵まれないなどの不運には耐える必要があってその忍耐が成功につながった例はきっとある

そもそも「成功出来ないなら努力は無駄」なんてことは決してない

また、「誰にでも必ず何らかの才能はある」なんて言うけれど、その才能が今の時代にマッチしているかということになると別、時代にマッチした才能は特定の人だけにある

そして「チャンスは誰にでもある」というのは多分嘘ではないけれど「チャンスは平等」ではない、その頻度や特にタイミングが重要で、そこには「運、不運」というのがあり決して平等ではない

で「ついてない」なんてしょぼくれてると状況はさらに悪化するから悲惨、頑張ろう

話を戻そう

恵まれた奴らは言う「チャンスはきっとある、思い続ければ夢はかなう」やら「おまえたちも頑張れ、頑張れば俺たちみたいになれる」」なんて類のことを、真に受けて「恵まれてる人たちは頑張った人たち、思い続ける努力で夢をかなえた人たち」だから「当然の権利で恵まれてる」なんて思わされちゃあ終わりだ、「才能とチャンスに恵まれた」と言うことはあっても恵まれていることが「努力の成果」とは限らないのだから

「生まれた時から恵まれていてそれが将来も保証されている」ことだってある、その全てを平等に分配しようなんてことはどだい無理な話で、より恵まれた人、より歳を重ねた人がそれに比例して自己犠牲の精神を持つことは必要だろう

武士道

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新渡戸稲造の「武士道」の中でもノブレス・オブリージュという言葉は使われていて

新渡戸は支配階級に属する者の義務や責任について述べており、ノブレス・オブリージュと武士道を類似する概念としてみていたと思われる。

また、西郷隆盛の残した言葉に

「命もいらぬ、地位も名誉もいらぬ、金もいらぬという人間は、まことに始末に困る。けれども、そのような人間でなければ、天下の大事をまかせることはできない」

なんてのがあるらしい、西郷隆盛も凄い人だと思うけれどそんな人が普通にいたってことだ

「命もいらぬ、地位も名誉もいらぬ、金もいらぬ」からと言って極貧の庶民とは限らない、さすがの西郷隆盛も「長屋住まいの八助」とかいう庶民に天下の大事をまかせたいとは思わなかっただろうから、これもノブレス・オブリージュのことだろう

武士道の精神が生きていた頃ならノブレス・オブリージュも普通に期待出来たのかもしれない

高貴な精神

経営状態が悪い時でも給料をきちんと払うのは当然だとしても、ボーナスを出来るだけ多く払うために自分の財産を使う経営者は意外といる、まあ、結構愚痴るのが難点だけれど、そんな自己犠牲を伴う高貴な精神なんて皆無な経営者の下で働くのは不幸だろう

自己犠牲は下々の者たちが我々のためにすることだ」なんて考えの政治家が仕切る国の国民は、たとえ「下々なんかじゃない」と思ったところでやはり不幸だろう

政治家に高貴な精神なんて求めても「どだい無理な話」だなんて思わない、潔癖さなんかも高貴に属することかもしれないけれどそれが政治家の最重要資質なわけがない、「天下の大事をまかせる」ような時に自己犠牲を望むのことは必要で、ノブレス・オブリージュと言われるような高貴な精神を評価することが必要だと

恵まれていながらその精神が人並みな奴らは軽蔑されてよいはず、それを放置し「銭もうけの上手さ」ばかりを賞賛したりすればその代償はきっと平等に分配されるだろう、まあ因果応報ってことで、するべきだった要求・評価を怠ったことに対する応報は思うよりずっと大きいだろう

ねこばば

拾った財布なんかをちゃんと持ち主に返そうとする行為は自己犠牲じゃなく、ねこばばは「横領罪とか窃盗罪」で犯罪なんだから返そうとするのは当然の行為だけれど、現金なんかの入ったものを紛失した場合それが帰ってくる可能性は低く絶望的だったりするから、それが帰ってきた時には抱きついてキスでもしたくなるほどうれしかったりする

ねこばばが立派な犯罪だなんてことは知らない人は多いだろう、警察が本気で捜査するなんてこともまずないだろうから、TVや新聞はもちろんねこばばで捕まったなんて話は聞いたこともないのが普通だろうから、捕まるのが嫌だからなんて理由で持ち主に返そうとするわけではなく、謝礼目的なんてのはあるかもしれないけれど

絶望から救ってくれたのは顔見知りだったけれど、時間と労力を使い謝礼を受け取るだけのこともしてくれたのに受け取る気は全くなかった、高貴な精神の持ち主だと思う

高貴な精神だなんてうれしさのあまり持ち上げすぎなのかもしれないけれど、その精神は裕福な貴族だけのものなんかじゃない、単に真面目さを貫くことだって十分高貴だと思う

さすがにねこばばの話でで自己犠牲やノブレス・オブリージュはこじつけが過ぎるとは思うけれど、最近あったことに感謝の意をこめて

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