自己犠牲なんてクソなのか

一般

日常の自己犠牲

ボランティアや寄付

ボランティアは他者のために自己の労力や時間をささげる自己犠牲を伴う行為で、必要とされることが多いのは寄付も同じ

いずれの犠牲も「失う」というようなものではなく、有り余る中からそのほんの一部をささげても「偽善だろう」などとうがった見方しか出来ないけれど、たとえそれが偽善でもやらないよりは良いだろうとは思う

必要とする人たちを思い「できる限り積極的に心掛けよう」とかも言いたいけれど、一般的なボランティアは団体行動で、それが苦手というよりほとんど無理な筆者にはちょっと困難かも、さらに問題になるのはそこに関わる仲介者達で、寄付などは時々考えたりするけれど、その仲介者達に納得出来ないことがほとんどだ、みんなチャンと調べてるのだろうかと疑問に思うことが多い

寄付の仲介にだってボランティアという自己犠牲を求めないのはおかしい、チャリティー番組などの出演にギャラが出てるなんてほとんどギャグだ

ボランティアや寄付というのは最小限の自己犠牲が集まって大きな助けになる、そんな助けがとっても必要な時もあるだろう、とは思う

電車とかで席を譲る

席を譲ることが「自分の権利を他者に譲る」ということなら自己犠牲になるだろうし、優先席ですら法的義務はないのだから席を譲ることはいたわりや優しさ、もしかしてそれが愛なのかもしれない

ただ、法律に定められてることだけが社会のルールではないはずで、優先席以外は「席に座る権利は、客観的に健康な男であろうと平等にある」なんてことも決してないはず

「健康な男子には元々譲るような権利などない」なんてモラルやマナーに厳格な場合は、席を譲るという行為が「やさしさや愛」なんかではないだろうけれど、そんなルールを守るために「肉体的な安楽」を放棄するのもまた自己犠牲なのかもしれない

ちょっと大げさかな、でもそんな最小限の犠牲で済むことが出来ないのは不思議、愛がないのかな

内部告発

実際に告発するなんてことは日常ではないけれど、完全に潔癖で健全な組織なんてまずないだろうし、組織への不満は必ずと言って良いほどあるだろう、そんな時半ば冗談結構本気で「内部告発でもしてやろうか」などと思うのは結構日常、じゃね

重大な内部告発には自己犠牲を伴う大きな決断と勇気が必要だっただろうということが多くあり、それはもっと賞賛されるべきだと思うのだけれど、地位や所得だけでなく義理や信頼関係をも犠牲にする場合、余程の確信や信念がなければ実行出来ないこともあるだろう、そんな難しい決断を自己犠牲で出来るはずがないきっと何か大きな利益を得たはずだと、そこに裏切り行為のイメージが加わるものだから賞賛どころか悪者扱いにもなり易い

最近は「ネット投稿」なんていう気軽な内部告発が流行だけど、そのほとんどが無自覚だから後で本人が痛い目にあったとしても、それは報いとか罰の類でもちろん自己犠牲じゃあない、ただのバカ

お人好し

自己犠牲はお人好しに見えるらしく、確かにそういう面もあるとは思うけれど

自己犠牲の強い人って見てて腹立つのはなんでなんだろうか - 小手先速報

腹が立つのはこんなことらしい

友人「同僚が仕事放って帰ったからやらないと。彼女と約束あったのに潰れた」
俺「お前がやる必要なくない?」
友人「いやでも忘れてるだけかもしれないし、終わらないとそいつ多分怒られる」
俺「忘れたにしろ放ったにしろそいつが悪いんだから、そいつが怒られるのは仕方ない。彼女優先しなよ」
友人「そういう訳にもいかない。でも彼女とケンカになりそう」
俺「イラッ」
こんな感じ

この再現も「俺」の記憶だろうしどんな仕事なのかも全くわからないけれど、「友人」の「終わらないとそいつ多分怒られる」と言う返答が「俺」の記憶違いでなければ「友人」は本心を隠してると思う、「人の仕事を肩代わりして終わらせる」ことが出来るだけの能力があり理解もしているのだろうから、実は

「今日中に終わらせなければいけない仕事だから、誰かがやる必要がある、わかるのは俺しかいないから、彼女とはケンカになりそうだけどしょうがない」

なんてところで自己犠牲の対象は同僚ではなくその組織だろう、きっと同僚をかばう気持ちもあっただろうから嘘ではなく、そんな「組織への忠誠心」みたいなものを「友人」に話すのは恥ずかしいとか、そんなところじゃないかと

厳しい組織なら仕事を終わらせる必要がある時に自己犠牲を強いるなど珍しいことではないだろう、それが極端だとブラックとか呼ばれるわけで、そこそこブラックなのは普通だろう、ただ、その場合「自覚がなくても鍛えられる」というメリットはある

厳しいとつらいけれど、それに堪えてさえいれば同僚とのスキルの差はつきにくいだろう、ただ、与えられた仕事を放って帰れる程度に甘いところだとそうはいかない

いらついてる場合じゃないかもよ「俺」

結局こんなところに書いても「友人」の自己犠牲が組織に対するものなのか、もっと別な性分なのかはわからないけれど、それが組織に対するものなら「友人」のように自己犠牲の強い人は、特に日本の会社では「協調性」とか言ってとっても好まれるはずだ

頑張れ「友人」、なんて実はどうでもよかったりする

協調性

はっきり言って協調性とかよくわかっていない、筆者自身は十分あるつもりでいても何度か受けた性格診断では必ずないと診断される、面白そうだとやった

【サービス終了】エゴグラムによる性格診断

でも結果はbaaacとからしく(これは結構面白く「十二分な自制と平凡な生き方」を心掛けることを邪魔してる奴らに見せてやりたい)、やはり「協調性に乏しい」と診断された

ウィキペディアによれば

協調性(きょうちょうせい)とは異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質

なんてことらしいけれど、「協調性に乏しい」と診断されても遠慮なく頼み事されることが多いのは気のせいなのだろうか、優秀だからなのかな、単に頼みやすいからだと思うのだけれど、思い違いなのかな

人が欲しがるものは普通に分けるし譲ってるはずで、やはり遠慮なくお願いされることも多いと思う、あまりみんなが欲しがってるものだと「俺はいらない」とかいうことはあるけれど

我を通して人を巻き込むことは決して好まない、ただ、離脱という選択はよくするかな、どんなことでも「みんなと同じ」には出来ないかもしれない、確かに団体行動は苦手だし単独行動が好きだ、孤独で寂しいことなんかほとんどないけれど、遊ぶ時はみんなで遊ぶ方がさらに楽しいと思う、チームプレイだって別に嫌いじゃないし十分楽しめる

我慢が必要な時には相手の都合を十分に考慮して、なんてのは最近やっと出来るようになったみたいだから、我慢が足りず迷惑をかけただろう記憶も、まあ、わりとある、それは「協調性に乏しい」ことも原因だろうから、それを自覚することは大事なことだとは思う

ただ、協調性なんて聞こえは良いけれど、「自己犠牲の強要をいとわない組織」にとって都合が良い素質を求められてるだけなんじゃないかな

「協調性がないと組織が崩壊する」なんていうのは大げさで、まず目標がある場合は協調性を求めることよりその目標に合った能力を求め見極めること、そして個々の能力を最大限に発揮させつつその目標を達成させるのは束ねる側の能力が評価の対象で、チームプレイなどは作業分担と個々の能力に対する信頼関係の問題、その信頼関係の構築は協調性が乏しくても十分出来るし、それは薄っぺらなものなんかではなくより強固だろう

特に小中学校などでその組織のための自己犠牲を強いる協調性なんかを学ぶ必要があるかは疑問、モラル教育は必要だろうけれど協調性は特定の目標のためでモラルとは別物

その目標がモラルに反する場合も大いにありうるわけで、その場合「協調性に乏しい」ことが逆に必要だったりするはずだ

協調性なんて乏しくて結構、全く問題ない(自覚は必要だけど)、むしろそうありたい(我慢を忘れちゃあダメだけど)、なんて思う

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